本澤二郎の「北京の街角から」

发布者:发布时间:2015-05-18浏览次数:260

<蘇東バ(土ヘンに皮)が安倍・自公改憲派に釘>
中国宋代の第一級の詩人として有名な蘇東バについてまとめた小沢書店の本を、友人が書棚から取り出して「読むように」と薦めてくれた。本を読むよりも、書く事に熱中している筆者は、やや抵抗しながらも、せっかくの機会なので、手にとって彼の生涯を追ってみた。科挙合格者として有能な官吏となった彼は、実に清廉・誠実に職責をこなしてゆく。皇帝の求めには臆することなく持論を展開する。それによって、反対派の攻撃で左遷されるが、かまわず突き進む。農耕しながら貧困にも耐え抜く。官僚・政治家・思想哲学者・書家・画家としてもすばらしい能力を持ち合わせている人物で、単なる詩人ではない。腐敗官僚にぜひ学んでもらいた蘇東バの生き様だ。彼が生きていれば、安倍・自公政権に対しても、厳しい注文を相次いで突きつけたはずである。


<平和憲法定着が先>
彼はあるとき科挙の制度改革について意見を求められた。臆することなく、「制度の改革よりも、まずは定着させることが先ですよ」と正論を吐いて譲らなかった。
大平正芳や宇都宮徳馬にあこがれて政界に出てきた白川勝彦は、自民党内極右の改憲論に対して「改憲の前に定着させることが先決です」と僕の質問に答えた。彼も蘇東バと同じ考えだった。
極右の悲願は、戦争放棄の9条を標的に政界に入ってきた悪しき靖国派の面々である。彼らのスポンサーは神社と財閥、特に武器弾薬メーカーである。極右は財閥の金ほしさに蠢いている不浄な政治屋といってもいい。

そんな極右自民党に「加憲」の公明党が付着した。改憲先導役が宗教政党の役割なのである。「民衆のために立ち上がれ」という公明党創立者の切実な思いを、まるで羽のはえた1万円札のように放り投げてしまった。
蘇東バのいう「まずは定着が先決」なのである。世界に冠たる日本国憲法を改悪するなど論外である。



<古臭い維新・改憲返上せよ>
ネット新聞によると、昨日大阪市の住民投票が実施され、慰安婦など歴史認識、改憲論で話題メーカーとなってきた橋下率いる維新の「大阪都構想」に反対派が上回った。彼の二重行政論に共鳴した筆者も、歴史認識や憲法改悪論を賛成できなかった。彼の背後に財閥の金を感じ取ってしまった。
そもそも維新という名称は、まるで長州人がつけたような古臭い印象が強い。裏で官邸がリモコンしていたこともわかっている。安倍の別働隊だ。大阪には半島出身の人たちも多いと聞く。
慰安婦・性奴隷についてのいい加減な認識の人物を、女性主権者は支持しないだろう。選挙結果が裏付けてくれた。
橋下は創価学会にも泣きついたようだが、この場面では婦人部の平和主義が勝って、橋下を受け入れなかったという。これは評価したい。同時に、婦人部は改憲・加憲の謀略にはまってはならない。池田路線を貫くべきだ。改憲派の走狗になってほしくない。



<南京城壁修復20周年記念式典>
中国のネット新聞によると、南京城壁保存修復事業20周年の記念式典が5月17日、南京で盛大に行われたと言う。
思い出した。われわれもこれに参加した。1995年、戦後50年の節目の年に南京と盧溝橋へと平和の旅を実施した。僕が立ち上げた「日中平和交流21」である。これに50人の仲間が手を挙げてくれた。
朝日新聞千葉支局の記者が記事にしてくれたお陰で、大学や高校の先生、医師や自民党秘書、一般の市民が参加してくれた。
これに平和労組のJR東日本・JR総連を率いていた松崎明も応援してくれた。彼が中国の寧波でつくった「憲法9条Tシャツ」を着込んで行動した。問題の南京城壁では、修復のためのレンガ運びもした。参加した若い鉄道職員は今どうしているか。駅長や運転士かもしれない。松崎という稀有な労働指導者を紹介してくれたのは、中島源太郎の秘書だった。中島には文部大臣時代、日中合作映画「敦煌」制作場面で、惜しみない応援をしてもらった。
北京での特別試写会には、息子の隆太郎秘書官を代理出席させてくれた。彼が撮影してくれた女優の三田佳子との記念写真は、現在も残っているはずだ。3・11の東北大地震で活躍している俳優の西田敏行が、三田の年齢を教えてくれたものだ。



<大虐殺を目撃した辻田老人>
50人の仲間には、すばらしい願ってもない人物がいた。南京大虐殺の3ヵ月後に南京に入った将校用の車を運転していた千葉県和田町の辻田老人だ。当時で86歳だったと記憶している。息子の和田町議が付き添っての参加だった。
上海から南京へ向かう列車内で、驚くべき目撃証言をしてくれた。従軍慰安婦のことも、である。悪逆非道な軍紀ゼロの「天皇軍隊」の行状には、本当に度肝を抜かれてしまった。
国家神道で天皇教育を受けた日本兵は「天皇のために死ぬことが本望」と教え込まれてきたのだが、その本性は野蛮なけだもの以下だった。
大虐殺記念館での南京の生き証人と、辻田さんの劇的な出会いは、朱成山館長を感動させた。



<大屠殺に驚愕した戦争遺児>
この50人の仲間に戦争遺児も一人いた。娘とそのパートナーも一緒に参加していた。彼女とは幼馴染で、小さいころ春先の野山で蕨を摘んだ記憶が、今も懐かしく残っている。木更津では「産婆さんの娘」で知られていた。
東京農大で栄養士の資格を取って、結婚すると、夫に従って秋田県本庄市で3人の子供を立派に育てあげた。当時は母親の介護で帰省していた。そんな関係で、この50人の仲間に入ってくれていた。
帰国後に「南京に立つ」という参加者の感想文で冊子を作った。昨年、そこに載っていた彼女の文章をみて、彼女の知られざる苦しい生き様をよく知らない自分にあきれてしまった。そして、彼女は自分が戦争遺児であること、戦場(硫黄島)で亡くなった父親が中国大陸にも来ていたことから、複雑な思いで参加していたことを知って、内心驚いてしまった。



<性奴隷被害者となって殺害された戦争遺児>
あわてて当時の記念写真を集めて確認したのだが、一緒に撮っている写真が少ないのにがっかりした。むろん、彼女も城壁修復事業に参加した。記念館では「大虐殺ではなく大屠殺」という表現に驚愕した、と書いていた。

彼女は靖国参拝に反対して、参拝しようとしなかった。「また中国に行きたい」と言っていたのだが、なんと2014年4月28日、大動脈溜破裂で即死した。木更津レイプ殺人事件の被害者となって、あろうことか地獄に突き落とされてしまったのだ。



<犯人逮捕を日中両国の善人で祈ろう>
調査して犯人を特定できた。千葉県警・木更津署がまともであれば、捜査はかなり進展しているだろう。彼女は帰途、北京で楽器をかかえる古代中国女性の大きな掛け軸を購入、これを日々の慰めにして生きてきた、という事実も判明した。
そんな心根のやさしい戦争遺児を、同じ信仰者仲間がやくざレイプ犯のもとへと連れ込んで、二つとない命を奪ってしまった、という悲惨な性犯罪被害者だ。恐ろしい悲しい性奴隷事件に巻き込まれた戦争遺児である。たとえ運命とはいえ、余りにも悲惨すぎよう。
彼女こそ南京大屠殺を、身をもって体験させられたのであろうか。犯人は日本軍ではない。木更津のやくざ大工である。さぞや無念であろう。本当に不憫でならない。
彼女が地獄から抜け出せるように、どうぞ南京市民も一緒に祈ってほしい。



2015年5月18日記(武漢大学客員教授・上海交通大学研究員・ジャーナリスト・日本記者クラブ会員)